コラム・エッセイ
許してハッピー
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子後期高齢者クラブに自然強制入会し、傘寿の宴を境に「これで傘寿(さんじゅ)の30才」と強引に若返ってみたが、足腰は正直で32才の動きはしてくれないから、日常生活はやはり自然年齢に従わざるを得ない。それでも、毎日ひっきりなしの電話や相談対応、時にはポスターで見つけた懐かしい歌手のリサイタルに連れ合いを誘って出かけたりと忙しくも楽しく日々を重ねている。
そんな中、ふと力を抜いたひとときに、来し方を振り返り、今を思うと、人は一人では生きられないのだと思う。誰もが、この世にただ一人で生まれてきて、母親から始まって家族、親族と、地域で、学校で、職場で、様々な人と触れ合い、つながりを作って、時を過ごしてゆく。
互いに関わらないではいられないとき気になることは、この関わりが自分にとって何なのか、自分が生きることの支えになるかどうかということ。その都度突き詰めて考え結論を出しているのではないが、本能的な直感とでも言えばいいのだろうか。
支えになると感じる関わりの相手は「味方」、妨げになると感じると反対側に置き分けている。はっきりと意識してはいないが、そんなことを重ねてきているように思う。もちろん周囲は味方と敵ばかりではない。互いにふれあう機会もないままの、味方とも敵とも分からない関係が最大多数なのだが、それでも、昨日も今日も明日も、想像以上の多くのふれあいの中で過ごしていると、人の繋がりの悩み事も生じてくる。
我が家の学びから巣立ち、今は高校生のRさん。中学卒業後もわがつれ合いと毎週一度オンラインのおしゃべりタイムを設けている。話題は1週間分のそれぞれの生活の出来事の報告や質問のやり取りで、大抵は老人側が高校生の日常をうれしそうに聴き取り、自分の感想や体験を交えた思いを語り、次々につなげているが毎回1時間以上も途切れなく話が続いていて、「高齢者の孤独、孤立問題の最良の対策は若者とのおしゃべりだ」というつれ合い殿の日頃の主張の裏付けを目の当たりにする時間になっている。
先日の話題はRさんの仲間作りの悩み。新しい仲間が出来る進級クラス替えの時期。ようやく出来た自分達の仲良しグループに入りたがっているクラスメートがいる。少しわがままなところがあるから、どうぞと迎えるとその人の行動を受け入れなければならないから気は進まないが、入れないのも気が重いと言う。
「そうだな。みんな仲良くは理想だが、全ての人と仲良くなるのは無理なことだ。でも、『好きになれない人』=『敵』ではない。許せることは許してみよう。「あなたが正しいとは思わないよ。でも今は許してあげる。あなたのすることを全て認めるのではないけどね。これでどうかな。」
おしゃべりタイムが終わった後、Rさんからつれ合い殿へ「はーい。分かりました」と可愛いスタンプ付きのラインメールが来ていた。無条件ではないが許して受け入れる。人間関係づくりを広げる年の功なのだろうか。
(カナダ友好協会代表)
