コラム・エッセイ
七夕さま
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子今日は七夕。「ささの葉さらさら のきばにゆれる……」ふとひとり、何も考えないでぼんやりしているとき口を衝いて出てくる一節。「うさぎ追いし かの山…」と並んで、私の頭の中に常住していて、何の脈絡もなく突然浮かんできて、いつの間にか自分ではない誰かが静かに歌っている。
特別に好きだと意識してはいないが、頭のどこかにいつも住み着いていて、いつでもひょっこり顔を出す。七夕でなくてもいつでも随時浮かび出すのだが、七夕には当然浮かんでくる懐かしのメロディー。
七夕と言えば織女と牽牛。天の川を挟んだ2人が年に一度の再会を果たす日。それ以上は、悲しい物語なのか、ただただ美しい物語なのか、実は知らないが、年に一度の再会という世代を超えて理解出来る筋書きがこれからもずっと語り継がれていくのだろう。
七夕の日の年に一度の逢瀬を、幼い頃、過ぎ去った若者の頃には美しいラブストーリーとして想像し、実感し、それ以外の想定は思い浮かばなかったのだが、年を経て気力の萎えを意識し始めた今ではちょっと違っている。
年に一度の逢瀬というキーワードは変わらないが、まつわる思いは大いに違っている。互いを分かつ流れの両岸に立つ若者二人には、叶えられる再会は互いの姿を確かめ、喜びの時を共有し、次の再会の時への希望を膨らませる時になるのだが、今自分が願う再会は果たされぬ思いを未来に咲かせるためのものではなく、過ぎ去った昔を今に戻したいという思い、かつて共にした、もう再現は出来ないと分かっているあの時を呼び戻すことなのだ。
お互い、今どうしているか、何を思っているかは分からなくても、会えば自分にはあの時が戻ってくることが信じられる。そんなひとときを今、作りたい。急がなければ。そんな気持ちに駆られるときが次第に増えてきている。
電話、メール、SNS、直接会えなくても言葉を交わす手段は豊富になったが、物言わずとも同じ空間にいることで、互いから放出されるフェロモンに似た霊気が作る安らぎが時間を確実に巻き戻してくれ、その後の語りは完全に時空を超えて、願った時と場面を再現してくれる。
同窓会、同期会と声がかかると動ける限りは万難を排して駆けつけようとする我がつれ合いも同じ思いなのだろう。気心知れた昔仲間と年に一度の高原の宿での語りと散策を楽しんでいたが、足腰がそれに耐えられなくなって途絶えて10年余り。杖突き歩く身になってもたまに体調快適なときには当然のようにチケットを手配して周囲の心配を説き伏せていそいそと出立する。
自分一人で楽しい旅をという気もするが、お互い再現したい中味が違うからねと、私なりに理解を示すことにしている。自分だけにしか分からない再会の時を待つ人たちが天の川の両岸に無数に立ち並んでいる。
そんな光景も想像される、後期高齢の七夕の日。
(カナダ友好協会代表)
