コラム・エッセイ
肝に刺さる
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子残暑お見舞いの季節のはずだが、相変わらずの猛暑、酷暑で、四季の国日本はもはや三季、いずれ二季になりかねない状況。だが、九月も下旬。その気になれなくても今は秋。大気燃える夏から強引に気持ちを切り替えて、もの思う秋に移りたい。
さて、何をもの思おうかと気を巡らせると、近頃気になっているのが、日常身近に聞く言葉の変化。「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われる。もっと直接的には「言葉は世につれ、世は言葉につれ」だ。時代を映し、象徴する言葉は確かにある。その言葉を聞くと、語る者と聞く者とにその時代の同じイメージが浮かばせる。そしていつかはそのイメージを表す共通語として定着し、新しい日本語になってゆく。
そんな言葉として、自分の知っている戦後社会の中で一番衝撃的に記憶に残っているのは「イカす」だ。石原裕次郎の登場と共に広がったものだが、「格好いい」満足できる素敵な状態を一言で伝える言葉として、若者ばかりでなく、日常語としても広まった。私は使うことはなかったが、聞いてその意味は素直に理解出来た。自分にとって、身近ではなかったが、違和感はなかった。その後も同様に様々な新語が現れ広がっていったが、どうしたことか違和感がつきまとって、自分の中では居場所が持てないでいる。
その一つが「ヤバい」という表現。本来の意味とほとんど真逆の意味で使われていることが多いから、とても受入れられない。同じ言葉で、伝えようとするものと伝わるものが違うと、聞く者には違和感が残る。そんな例は他にも例えば「全然…ある」などあって、日常会話でかなり広く使われているようだから、私の違和感はもはや「無駄な抵抗」なのかもしれない。
他にも違和感の対象はあって、一大勢力となっている「推し」という表現。推の字は分かる。でもこれは本来「推す」という動詞だろう。それを名詞に使って「推し」というから違和感が湧く。でもこの場合は「ヤバい」と違って、伝えようとするものと伝わるものに食い違いはないから、単に好き嫌いだけの事かもしれない。
それから、ごく最近気になっている表現が“肝”と“刺さる”。人気TV番組のコメンテイターがよく使っていて、日常語化が進み始めている。「肝」は「肝心かなめ」の肝。物事の大切な部分、重要事項を示すときに「肝になる部分」と言うところを短く「肝」と言うらしい。そして「刺さる」。「このことがこの人に刺さる」等と使っている。あることが狙い所に届く、伝わることを言うようだ。
この時感じる違和感は「ヤバい」や「推し」への違和感とは違う。意味も使い方も間違ってはいないが「そんな言い方より、もっといい言葉はないのか。」というもの。こんなことまで違和感を感じていては世代間格差は広がっていくばかりかもしれない。
でもやっぱり拭いきれない違和感。秋はまだまだ来そうもない。
(カナダ友好協会代表)
