コラム・エッセイ
粉の季節
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子新緑の季節。つい先月までは地球温暖化の裏の顔だという豪雪も報じられていたのに、身軽な服装で外気を満喫できるうれしい時の始まりになったが、それを帳消しにするようにこの季節になるとやってくるのが粉と粒。花粉、黄砂、おまけにコロナウイルス。夫婦揃って花粉症の私たちには春到来と同義語になっている。
2月の花粉飛び始め時期には真っ赤になった目こすりから始まり、そのうち電車の中でもバスの中でもところ嫌わずくしゃみ連発となり、コロナ感染症かと疑う周囲の気配に「いや、これは花粉症です。ご心配なく」と目で訴えることになる。ようやく花粉症が治まりかけたと思ったら始まるのが空の異変。
目覚めて空を見上げる横のニュース画面で伝わる黄砂予報。画面一杯オレンジ色に塗りつぶされた黄砂予報が、大規模飛来を告げている。この黄砂飛来、人類史の始まり以前から繰り返されてきたことだろうから、梅雨や台風と同じく日本の風土になくてはならぬものかもしれないが、そんなもの一向に思いつかないから、心の中ではあんなところに砂漠などなければいいのにと思うこともしばしばだ。
一体どれだけの量が飛来しているのか分からないが、あれだけの広範囲だからいくら小さい粒でも大変な量になるのだろう。それが毎年決まってとなると、砂漠の砂もいつかなくなるのではないかとも思う。毎年の黄砂飛来。繰り返される自然の営みと言えば、以前こんなことを思ったことがある。
山奥の源流から海に注ぐ河。源流の元は太陽の光で暖められて海から蒸発した水が雲となって運ばれた雨だ。その雨水が河となって海に運ばれ再び雨となって戻ってくるまでにどのくらい時間がかかるのだろうと思った。
こんな疑問を口にした時、ちょっと計算してみようと割り込んだわがつれ合い。地球を照らす太陽光の熱エネルギーは一定として、海水の表面数百メートルが蒸発して入れ替わるのが、ほぼ1千年くらいだという。
計算の根拠や正確さには責任を問わないとして、源流から流れ出した水が1千年くらい経ってまた源流に戻ってくるなら、その水は1千年ごとに移り変わる景色を見ながら流れ下っているのだなと、歴史の絵巻を眺め続けている水滴の気持ちを想像してしばし楽しんだものだ。同じ思いを黄砂の砂にも当てはめてみると、この黄砂雲が何度やってくれば砂漠の砂はなくなるのだろう。
それでもなくならないのなら、これまで何度入れ替わったのだろうか。誰か計算して教えてくれたらきっと楽しいだろうなと思うと、毎年憂鬱でしかないこの季節の厄介者の到来が、少しは我慢できるかもしれないと思う。
こんなことにはいつも興味深く手出し口出しを始めるわがつれ合い。今は未だ全く動き出そうとしないのは、やはりお年のせいで、頭と手の動きに自信がなくなっているからなのだろうか。
(カナダ友好協会代表)
