コラム・エッセイ
ご飯かパンか
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子この世に生まれて最初の行動は、自力で肺呼吸が出来ることを知らせる「オギャー!」の一声。次にはおっぱいの乳首を求めるように吸う口の動きだったと、初めての出産に立会ったつれ合い殿の思い出話。
呼吸すること、食べること、出すこと(排泄)は生きるために必須だから、教えられなくても本能的に出来るのだと納得できる。では、次に必要なものは何かとなると、それは言葉だというのには余り異論は出ないだろう。
言葉がなければお互いに意志を伝え合うことが出来ない。必要なことを知ることも出来ない。人間は言葉がなければ社会を作って生きられない。しかし、そんな大事な言葉は本能的には話せないから、生まれてから休みなく教えられ、覚え、使って、間違え、直されを繰り返し、使い方を身につけてゆく。人は生まれ、呼吸し、食べ、出し、言葉と共に行動して生きていくので、生きるためには本能的行動は当然必要だが、それ以外の言葉と共に演じられる行動が重要で、自分の行動が理解され受入れられるためには言葉の力が必要だ。
行動を説明し、理解するために必要な言葉だが、使われ方によっては、混乱を招く結果になることもしばしば起こる。それは同じことを表す言葉への理解が話す者と聞く者との間で異なっている場合にしばしば起こる。そんな例が最近全国的話題になっている。
してはいけないことをしたかと問われた人が、動かぬ証拠を突きつけられながら、「私はしてはいません」ときっぱり否定していて、聞く者を驚かせている。あなたがしたよと言われて、いいえ、してないよと言うのだから、どちらかが本当なら、どちらかが嘘と思えてしまうが、この論争、結局、言葉の問題だ。同じ言葉に含めた意味が、恐らく意図的に違っていて、その結果どちらも正しいということになってしまっている。
いわゆる「ご飯とパン」問答。朝食を摂っていることが確実にわかっている人に「あなたは今朝ご飯を食べましたか?」と聞くと「いいえ、食べていません」との返事。「あ、嘘を言いましたね」「嘘は言っていません」「でも朝食を摂っていたことはわかっています」「今朝はパンを食べました。ご飯を食べたかと聞かれたから、いいえと答えました。嘘ではありません」。ご飯とは米を炊き上げたもののことだとすると、ご飯を食べましたかと聞かれていいえと言うのは全く正確な答えで、嘘つきと非難されるいわれはない。
「朝食を摂りましたか?」と聞かれて「いいえ」と言えば嘘つきになる。大切なことの問答には双方の使う言葉に意味の違いがないように、よくよく確かめておく必要がある。「受け取ったか?」と聞かれて、この手に受けて取ってはいないから「受け取っていません」と答えるのは、事の真相は別にして、嘘とは言えない。
回答責任を曖昧にする、官僚の常套手段「ご飯とパン」問答。これからもあちこちで使われ続けることだろう。
(カナダ友好協会代表)
