コラム・エッセイ
友人選び
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子有名な女性作家が朝のTVで高齢期の友人選びを語っていた。お説を伺うと、高齢期に達しての友人は同年代でなく、10歳下の年代から選べという。一瞬、ああこの人もと思った。
つい先日、話し相手選びについてのわがつれ合いの近況を紹介したばかりだったから、そうそう、高齢者には若い話し相手が必要とうなづいたのだが、直後に背後から違和感に包まれるのを感じた。
「この人、友人選びを語っていたよね。友人は10歳年下からと。それ、おかしいよね」
高齢期の話し相手は若い年代の方がいい。10歳どころか、50歳、60歳隔てたおしゃべり相手がいるわがつれ合いが実証している。おしゃべり仲間は年下がいい。自分には相手よりも確実に長い人生経験の蓄積がある。話して聞かせることがあり、相手からは自分の想像になかった反応がある。アクションとリアクション。おしゃべりは楽しいのだ。
でも、友人とはおしゃべり仲間のことか、と思う。友人はおしゃべり相手?おしゃべり相手は友人? 違和感はこれだ。二つは等式で結ばれているのだろうか?
友人とは、まず、意を通じることの出来る相手。意が通じているからおしゃべりが出来るのだから、ここに違和感はない。意が通じているとは、共感できるということだ。この世界に、同じ思いを持つことが出来るものがあることは、友人であるための大切な条件だから、ここでは等式は成立だ。
でも、ふたりの価値観は同じとは限らない。別のことには意が通じないこともある。でもそれでも構わない。互いに認めよう。交じり合えないことがあっても認め合っていこう。おたがいの考えを受入れるのでなくても、考えが違うことを認め合っていこう。相手が正しいと認め受入れるのでなくても、互いが違うことを許し合おう。認め合い許し合うことを寛容という。これがもう一つの条件になる。
共感と寛容。この2つで結ばれている人間関係を友人というのだと思う。そう考えると、おしゃべり仲間には共感は必須だが、寛容は求められない。話が合わなければ、気が合わなければ違いを認め合わなくても、離れていけばいいだけ。等式はいつも成り立つとは言えなくなる。
寛容の基に共感があるのが友人で、寛容は不明でも共感があれば成り立つのがおしゃべり仲間。二つは別である必要はない。おしゃべり仲間が寛容で結ばれれば、等式成立だ。こう思うと、友人選択の範囲から同年代を除くのはなぜ?と改めて思う。
互いに寛容が成り立てば、自分のことしか話したがらないふたりが友人になることは出来る。おしゃべりで結ばれた、意の通じる相手に互いに寛容になれれば50歳、60歳年の隔たった同士が友人になることも出来る。
そんなふたりを結ぶのは、自分にも分からない縁というものだろう。こんなことを考えることが多くなったのも、年を経たということなのだろうか。
(カナダ友好協会代表)
