コラム・エッセイ
秋を待つ
新しい出会いに向けて-この町・あの人・この話- 浅海道子 「春夏冬二升五合」
町の古い食堂の、年期の感じられる古壁にお品書きから少し離れたところにこんな文字の書かれた張り紙が見られたことがある。
四季の国の日本だから、春夏には秋冬と続くはずだが、あれ、「秋」がない。「秋ない」で「あきない」を別字で書けば「商い」という洒落だ。続く二升五合は、お米は枡で量るから二升なら一升枡が二つで「枡々(ますます)」五合は一升の半分だから「半升(はんじょう」つまり「二升五合」は「ますますはんじょう」で「益々繁盛」。全部そろうと「春夏冬二升五合」は「商い益々繁盛」というおめでたい言葉になる。
少し頓知(とんち)を働かせるとこれがすんなり読めて、誰もが納得するほど、日本では春夏秋冬は当然のこと。夏の次には秋が来る。それが今では春夏夏冬状態。感覚的には冬冬春夏夏夏夏冬になっていて、春夏冬が「あきない」と結びつく発想もなくなっているようだ。
立秋はとっくに過ぎた9月に入っても、猛暑日どころか酷暑日が復活しそうで、辛うじて大量発生の台風が雨雲を運んで日よけするのを迷惑半分に迎えていた。
地球温暖化。物質文明享受の代償かのように報いが覆い被さってきているのを感じるが、数百年いや数千年の昔からご先祖様達が体感してきた自然の営みの中から得られた自然観はこの数年、せいぜい十数年の現在人の体感だけで書き換えられるものではないということを感じさせるのが、ここ数週間の時の移ろいだ。
8月7日立秋は酷暑の真っ只中。どこを探しても秋気など配さえ感じられない春夏夏夏そのままで、2500年の歴史を背負った暦もいよいよ書き換えの時を迎えたと思ったことだったが、9月を迎えて半ば近く。迷走台風の雲の裂け目から顔を覗かせたお日様に合わせて吹き降りてきた風が、湿気と熱気に蒸せた「汗おこし」ではなく、涼やかに頬をなでるあの感触。
「ああ、秋。秋の風!」と小さく叫んでいた。やはり来た。やって来たのだ、秋が。秋は、暦の知らせとは、ずれてはいる、来るのを忘れてはいなかった。もう、通い道を忘れて帰ってこなくなったのかと思っていた渡り鳥が遠くから姿を現したような、懐かしさと安心が湧いてきた。
立秋も二百十日も季節感とはかけ離れてしまったけれど、「暑さ寒さも彼岸まで」は今も生きている。平年値を超えた高気温も、十数年来の強風も我が人生で未経験の豪雨も、先祖伝来二千五百年の暦の中にはしっかりと記憶されていて、この酷暑も豪雨も本年分の1ページに記録されていくのだろう。
生きながらえた人類が二千五百年後に開く日本の暦にも変わることなく立春立夏立秋立冬が書かれているのだろうか。そして酷暑の空を眩しく見上げた後でやはり「暑さ寒さも彼岸まで」とつぶやくのだろうか。おそらく短いこの秋に、今年はどんな冬が続くのだろう。
(カナダ友好協会代表)
