コラム・エッセイ
No.15 伝説の用水路――大溝②斜め堰
中須里山通信 形岡 瑛大溝の取水堰は斜め堰である。現在は2000年3月に完成した工事で頭首工が鉄筋コンクリート製となり川を横断する堰が直角になっているが、頭首工の樋門に水を引き入れる斜めの堰は原形のままではないかと考えられる。(写真)斜め堰は明治以前は一般的だったが、現存するのは(**)ごく僅かであり貴重な文化財でもある。
大溝の作られた時期については『大溝改修記念誌』(*)所収の「明治時代の古い記録」の中に「時は元亀・天正の頃…」とある。
元亀元年は西暦1570年。天正は1573年から1591年まで。天正十年には信長が本能寺で明智光秀に討たれ、覇権が豊臣秀吉の手に移る。前掲の文書ではこの間の事について「都は戦乱し 人民生活に於いても多分な天候の不順と悪疫流行にて穀物の収穫も思うに任せず途に餓死せる者あり周防前山代の一部中須南村字畑久保杉山方面にも数カ月降雨なく稲を植えるにも水なく百姓天を仰いで唯嘆息するのみ」「姓不詳の老夫婦あり一大悲願を興し阿田川の水を引いて潅がいの水にせんとの思いを身命に誓う事数日…」とある。伝説では“おおみぞばばぁ”であったがここでは「老翁夫婦」とされ、「“おおみぞばばぁ”が処刑された」という記述はない。残念なのはこの文書の出典が明らかにされていないことだ。なお、この文書では「その恩恵に浴する約百十戸の農家」としている。
この時代、防長二州は、毛利元就が大内と陶を滅ぼし支配下において間もない時期である。須々万の「沼の城」攻防が元亀元年(1570年)から14年遡る弘治二年(1556年)から三年にかけてのことだった。中須も戦場となったので戦乱冷め止まぬという情況であったろう。この時期天正検地が行われており、大溝の開削にともなう新田もその対象となった筈だ。
*大溝水利組合1998年9月。この時受益面積28町歩で農家が47戸。前回「10町歩」としたのは、現在の農地の現況から推定したのだが、不正確だった。
**牧康隆「日本水利施設進展の研究」1958年土木雑誌社
大溝の取水口2014年4月
