コラム・エッセイ
No.46 農村の希望(1) 限界集落⑧ 四万十川中流の集落を訪ねて(一)
中須里山通信 形岡 瑛椎茸
写真のように椎茸はクヌギ、ナラなどの木に椎茸菌を付着させた種駒を打ち込んで日陰に水分が十分保たれるようにして伏せておくと生えてくる。
筆者がこの栽培方法が開発されたいきさつを知ったのは、2009年7月、高知県の四万十川中流の古城の集落(四万十町十川)を訪ねた時だ。
人工的椎茸栽培は、江戸時代の末期から明治時代にかけて盛んになり、1942年(昭和17年)森喜作による純粋培養菌の種駒を打ち込む方法の完成で、産業として拡がっていった。人工的栽培には、椎茸から胞子を採取し鋸屑などに混ぜ込んで原木に付着させるなどの方法が考えられたが、効率が悪く、大分などの大規模生産地では、原木に鉈で傷をつけて日光を遮断し湿気のあるところに伏せておく「なため方式」が主流であった。半分は自然任せの方法であった。椎茸は、他のキノコと同様、高温多湿の気候風土の元、落葉広葉樹林のなかで見られたものだが、その味覚が優れていることから、特別な食材として重宝されてきた。人工的栽培の普及で産業として成り立つようになった。
今、ホームセンターの店頭に並んである種駒の箱に製造元として「森産業」と記してあるのは森喜作が起こした会社である。
森は、昭和10年代の中頃、京都大学在籍の時、フィールドワークで大分県の山中で老婆が横に伏せた原木の前で
「どうか茸(なば)よ出てくれ」と祈っている姿に出会った。その願いに応えようと研究を重ね、純粋培養種菌駒法を確立したのだった。
参照=森喜作『シイタケの研究』1963年 森食用菌蕈研究所
