コラム・エッセイ
No.49 農村の希望(1) 限界集落⑪ 四万十川中流の集落を訪ねて(四)
中須里山通信 形岡 瑛椎茸は,江戸時代末期からこの地方で主な林産物であった。藩政時代から森林の管理が行われている。(前掲『十和村史』)
戦後、古城の満州引き揚げ者が、古城椎茸研究会を立ち上げ、生活手段として手がけて以来である。
日露戦争でロシアから利権を奪った中国の遼東半島関東州の警備のためとして配置されていた関東軍が、1931年(昭和6年)9月、「満州事変」を起こし、満州占領を強行、翌1932年3月に、「満州国」建国宣言をした。
政府は、そこに農村から開拓移民を送り出したのである。旧満州への移住は、「国策」として遂行された。
各県町村に「分村」として割り当てられた。『十和村史』によると十川村からは、1943年(昭和18年)5月から1945年(昭和20年)3月までに、132戸、547人、当時の村の人口の約15%が移住、日本の敗戦後、帰国するのであるが、その間に361人が死亡している。『十和村史』には、古城椎茸研究会の発起人、吉野菊馬さんの回想が収録されている。
《何とかして食っていかなければならない。思案の末二、三人が協同して、村有地立木の払い下げを受けて炭焼きを始めた。しかし、炭焼きだけでは収入が少なく、従前より自家用としてやっていた。椎茸の栽培に着手した。気候風土にも適しているし、満州での生活体験からオンドルで加熱する「古城式乾燥場」を造り、少ない経費で多産することに成功し、最近では全国屈指の産額をあげ、各地から続々視察団が来訪するほど有名になり、個人的にも村の経済にも大きく寄与している》
古城周辺の雑木林(2009年7月6日撮影)
