コラム・エッセイ
(15)須磨
補 周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
周南市の須金地域には多くの平家伝説が残されている。その中の一つに秋月丸に関する言い伝えがある。中納言雅頼の子どもとされる秋月丸は、父を追って壇ノ浦に下ったが、時はすでに遅く平家は敗れ去っていた。
敗戦によって追われる身となった秋月丸は、多くの落人が逃れ住んでいた須金地域で暮らしたと伝えられている。かって住んでいた場所を懐かしんでつけられたのが、須磨(すま)という地名であったと言われている。
ところが、いつのころか、「須磨」の「磨」の字が「万」の字に置き換えられ「須万」に変わっている。「万」を「ま」と読む地名は、山口県にも「万倉(まぐら)」や「田万(たま)」があり、珍しいことではない。
しかし、なぜ、わざわざ変更する必要があったのであろうか。それなりの理由があったはずであるが、資料では見つけることができなかった。もしかすると、同一名称を避けるために改正されたのかもしれない。
伝説の残る貴重な地名が、消え去ることは残念で仕方がない。そうした思いとは別の理由から、明治17年に須万小学校の名称が須磨小学校に改称されている。その理由が何であったとしても、うれしいことに違いない。
聞くところによると、その須磨小学校も生徒数の減少で、廃校の危機に直面しているらしい。容赦なく打ち寄せる過疎化の波は、かって、500人を超えていた児童数がわずか4人に減っていることにも表れている。
そんな思いを抱きながら、秋月丸が落人となる前に住んでいたとされる神戸市の須磨の地を訪ねてみた。古くは、かっての須磨村と同じように、八部郡の須磨村と呼ばれていたが、後に須磨町から須磨区になっている。
さっそく、山陽電鉄の須磨浦公園駅から須磨浦ロープウェイに乗って鉢伏山上駅に向かった。眼下には、美しい須磨海水浴場の砂浜が続き、そばにはJR須磨駅が見えた。その眺めには、胸に迫りくるものがあった。
