コラム・エッセイ
第五十一手 「歴史上の囲碁②〜耳赤の一手」
「碁」for it 小野慎吾前回は「歴史上の囲碁①〜日本での囲碁」と称し、日本の平安時代から江戸時代にかけての囲碁についてご紹介しました。江戸時代には日本の囲碁界は黄金期を迎え、天才棋士が多数現れました。その内の一人が後に碁聖と言われた「本因坊秀策」です。漫画「ヒカルの碁」に登場する藤原佐為は「本因坊秀策」をモチーフとしています。
今回は、本因坊秀策が打った対局で一番有名な「耳赤の一手」についてご紹介します。
1846年7月21日に「井上因碩八段VS秀策四段」が対局を行いました。井上因碩は、正式には「井上 幻庵因碩」と呼ばれています。家元井上家の十一世因碩であり、八段は時の準名人の格を表します。本因坊元丈、安井知得仙知、本因坊秀和と共に「囲碁四哲」と称されました。
当時、因碩は48歳、秀策は18歳で段、格も違うため胸を借りる立場であった事は言うまでもありません。この対局日の前日に秀策が2子のハンデを貰い打ち進めたところ、因碩は笑いながら、「これは手合い違いだ(ハンデが厳しすぎる)2子ではとても碁にはならん。明日、改めて先番で対局しよう」とその時には破格の定先(当時のハンデ無し)に変更になった経緯があります。
定先となった対局は、21、22日と打ち掛けをしながら、因碩の形勢良しの日が続きました。形勢が悪いと感じていた秀策の放った127手目が形勢を一変させました。その着手は「耳赤の一手」と言われ「大局観に裏打ちされた全方向をにらんだ名手の名に恥じていない一手」と評されました。
この一手を見た因碩は長考に沈み、付き添っていた因碩の主治医が因碩の表情を伺ったところ、顔面から耳まで赤みがさしており、因碩の苦吟ぶりが察せられる事となりました。医者は「秀策の勝ち」を予言しました。理由を尋ねる門人達に「あの一手で因碩先生の耳が赤くなった。心が動揺した証拠である。秀策の一手は先生の意表を突いたのではないか?」と説明しました。7月25日に対局は325手で終局し、秀策が先番で3目勝ちとなり、予言通りになりました。
当時、一流であった因碩に勝った事から、秀策は本因坊の跡目を継ぐ流れとなります。1848年に正式に第14世本因坊跡目となります。徳川将軍の御前対局・御城碁においては19勝無敗という大記録を立てました。今でも、本因坊秀策の囲碁最強説は囲碁ファンの間で語られる事が多くあります。筆者はこの「耳赤の一手」を子どもの頃に知りましたが、そんな一手を人生の中でいつか自分でも打つのが囲碁人生の目標の一つです。
最近何気なく、教えている子ども達に江戸時代には「耳赤の一手が〜…」と説明しところ、「え、何それ汚い話?耳垢(あか)の一手でしょ?」と言われてしまいました。このコラムをパソコンで打っていても耳垢と変換の一発目に出てきます。(笑)確かに知らない方からすればそっちの方が普通ですね…。(汗)お後がよろしい様で…。
自分が納得する手を打つために「碁」for it(頑張る)!
耳赤の一手(本因坊秀策)
