コラム・エッセイ
(12)大島の煙突
再々周南新百景 佐森芳夫(画家)周南市大島に「大島の煙突」といわれる煙突が建っている。誰もが知っていると思われる有名な煙突であるが、その煙突がいつ何の目的で建てられたかなどの詳しい内容を知っている人は意外に少ないかもしれない。
そんな疑問を解き明かしてくれるのが、昭和54年(1979)に発行された『ふるさとの想い出 写真集 徳山』(国書刊行会)であろう。「大島の煙突」に関係するものとして、3枚の白黒写真が説明付きで載せられている。
まず、最初の写真に付けられた「鈴木亜鉛製錬所」という予想外の名前に驚かされる。説明文には、大正4年(1915)に神戸の鈴木商店が亜鉛製錬所の建設に着手し、翌5年4月に工場が落成したなどと記されている。
ところが、2枚目の写真は「日本金属株式会社徳山製錬所」と題されている。説明文によると、同年6月に名義変更が行われたとされているが、完成からわずかの間に名義変更が行われた理由は明らにされていない。
それらの疑問に対する明解な答えとなるのが、『日本精蝋の歴史【温故知新】』の八合山煙突の歴史に書かれている「山林にも被害が出始めたことにより」や「山の上に大煙突を建設することになった」の文であろう。
原料の亜鉛鉱には高濃度のカドミウムが含まれているため、製錬によって排出される煙や水が被害の原因となっていたことは明らかである。その被害対策として、名義変更や大煙突の建設が早急に行われたのであろう。
しかし、第一次世界大戦の影響で原料の亜鉛鉱をオーストラリアから輸入できなくなったため、わずか4年後の大正9年(1920)には工場閉鎖となっている。その後亜鉛工場は鈴木商店の帝国石油株式会社に譲渡される。
3枚目の写真には、苦境を乗り越え昭和26年(1951)に新しい会社として設立される前の昭和4年(1929)、南満州鉄道の子会社として設立された当時の日本精蝋株式会社が亜鉛製錬所時代の煙突とともに写されている。
