コラム・エッセイ
(72)景清の力石
再々周南新百景 佐森芳夫(画家)周南市川崎にある川崎観音堂では、令和4年の2月に本堂、門柱、山門の3件が国の登録有形文化財に登録されている。その山門のすぐ右横に置かれているのが、「景清の力石」と名付けられた巨大な自然石である。
そばに立てられた説明板によると、この石は平景清が観世音を勧請(かんじょう)した際に海岸より担ぎ上げたといわれているもので、この石を撫でた手で腰から下の患部をさすると治癒に霊験があるといわれている。
「悪七兵衛」の異名で知られる平景清は、屋島の戦いの一騎打ちで源氏方の美尾屋十郎(みおのや・じゅうろう)の兜の背面にある錣(しころ)を素手で引きちぎったといわれている「景清の錣引の伝説」が有名である。
異名の「悪七兵衛」の「悪」は、悪人といった「悪」をあらわすものではなく、勇猛果敢であることを意味する言葉として使われていたものである。四国高松の屋島には、伝説の地に説明版が建てられ保存されている。
川崎観音堂にある「景清の力石」も、これらと同様に「悪七兵衛」の異名を持つ景清の勇猛果敢さを象徴したものであり、背丈を超えた動かすことができないほどの巨石が景清の剛力さを物語っているようにも見える。
観音堂の前に建てられた「川崎観音由来記」によると、屋島の戦いに敗れた平家一門は、瀬戸内海を船で下る途中で暴風雨に遭遇したため黒髪島裏に避難し、景清は観世音菩薩に暴風雨が静まるように念じたという。
そうしたところ、夢枕に立った観世音から「我を向こうの山にある寺門に安置すれば風雨靜まらん」の言葉があったので、その言葉を信じた平景清は、持っていた十一面観世音菩薩を観音堂に安置したとされている。
すると、たちどころに風雨が静まったため、無事に壇ノ浦に着くことができたという。爾来(じらい)、この観世音を念じれば、必ず応益があるとされる。特に安産、眼病、下肢不自由に霊験があると記されている。


東ソーが生み出す多種多様な製品は、社会インフラや耐久消費財など人々の生活に役立つさまざまな最終製品に使われています。総合化学メーカーだからこそできる、化学の革新を通して持続可能な社会に貢献していきます。

来院者の方へもっと目配り、気配りをしたい。物品の補充や搬送に時間を取られる・・・
サマンサジャパンでは医療従事者の方がより医療に専念できるよう、コンシェルジュ、受付、看護助手、清掃、設備など様々な業務を行っています。