コラム・エッセイ
(78)海外引揚げ上陸跡地
再々周南新百景 佐森芳夫(画家)長門市の仙崎港にある海外引揚げ上陸跡地を訪ねてみた。終戦時、外地(日本が領有していた地域)に残留していた日本人は約674万人と言われ、その内訳は、軍人が約346万人、民間人が約328万人であった。
現在、山口県の人口が約134万人であることから考えると、いかに莫大な人数であったかがわかる。終戦後、政府によって、残留邦人の全員が外地から内地(日本の本来の領土)に引揚げるための措置がとられた。
そこで、全国各地に外地からの引揚げを受け入れる港が指定された。主な引揚げ港としては、舞鶴港(京都府)、浦頭港(長崎県)、博多港(福岡県)、浦賀港(神奈川県)、そして長門市の仙崎港などがあった。
ただし、仙崎港の利用については、特別な運用が行われていた。それは、引揚げ船に関釜連絡船であった大型船の興安丸が使われたため仙崎港に接岸できなかったからである。興安丸は反対側の深川湾に停泊した。
引揚げ者は、興安丸から小型船に乗り換えて仙崎港の桟橋に上陸した。その時の様子は、現在、長門市総合文化財センター(ヒストリアながと)で開催されている「ながとに残る戦争の記憶」展で見ることができる。
昭和22年9月2日の夕刻には、約7千人を乗せた第一回の引揚げ船の興安丸が仙崎港に到着したとされている。おそらく、深川湾のことであろう。全員の上陸が完了するまでには相当の時間が必要であったと思われる。
最近、ある家族の戦前戦後の記録を目にする機会があった。家族4人それぞれの外地へ渡航した日付や外地から引揚げた日付、外地での住所や職歴、学歴、さらに引揚げ上陸地が仙崎港であったことも書かれていた。
戦後80年をむかえた仙崎港の一角には、「海外引揚げ上陸跡地」の碑が建てられている。そこには、戦争によってすべてを失い、命からがらで引揚げてきたであろう多くの人たちの苦しみと悲しみが記憶されている。
