コラム・エッセイ
(94)緒方大明神
再々周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
「かの維義はおそろしき者の子なり」と『平家物語』巻第八に書かれているその男こそが、宇佐神宮の荘園であった緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)の荘官を務めていた緒方三郎維義(これよし)である。
ところが、緒方三郎維義は「おそろしき者の子なり」の言い伝えだけではなく、京都を追われ太宰府に落ち延びてきた平家にとって、それ以上に恐ろしい存在となり、太宰府など九州の地から追い出されることになる。
かつては、平重盛と主従関係を結んでいたにもかかわらず、重盛の死後には説得にも応じず平家に反旗を翻すようになる。そして、豊後の知行国司が出した平家追討を、後白河法皇の院宣と受け取り追討軍を編成する。
平家に反旗を翻した理由は、平家の処遇に不満があったからとも荘園領主の宇佐公通と上納米で揉めたからとも言われている。宇佐神宮の大宮司である宇佐公通は、平清盛の娘を妻にするなど平家と強く繋がっていた。
緒方三郎維義の判断が、間違っていたとは言えないまでも、けっして良い結末をむかえることはなかった。宇佐神宮の焼き討ちや源頼朝に背反した義経に加担したことによって捕らえられ、上野国沼田に流罪となる。
その後、『豊後立石史談』によると、緒方三郎維義は建久元年(1190)配所の上野国沼田荘よりの帰途、病によってこの地に没したとされている。また、平家の祟りによって落馬して亡くなったという別の説もある。
その地とされているのが大分県杵築市山香町下にあり、田の畔に祠が祀られていたと言われている。しかし、大正の初めごろに取り払われて、立石川の対岸にある馬上八幡宮(現在は馬上八幡神社)に合祀されている。
その馬上八幡神社を訪ねてみた。かって隆盛を誇っていた馬上金山のそばにある静かな境内には、おそろしき者の子と言われ、平家を滅亡に追い込んだ九州最強の武将、緒方三郎維義を祀る緒方大明神の祠があった。
