コラム・エッセイ
No.07 報道の自由とは何を言ってもよいというものではない
独善・独言A表、報道の自由世界ランキングでは、日本は68位とG7では最低ランクになっているが、これは記者クラブにおける外国人記者排除という身内同士の軋轢が大きい要因のようで、この順位をそのまま鵜呑みにはできないと考える。
本年春の放送法がらみの政局、いちゃもんをつけた首相補佐官が指摘した日曜日の番組は、政権批判のオンパレーで、私からみても違和感を感じる場面が多い。コメンテータは視点はそれぞれ違っていても根っこは同じ主張、一人ぐらいは「理解できないこともない」というような発言の流れがあってよいかなと思う。
飯島勲氏は今回の騒動に「報道は限られた紙面、放送時間の中で、政策上の成果よりも政府に批判的な内容が中心になることは仕方ないかもしれない」との見解を述べているが、私もそれを是としたい。よって、この番組が嫌いではない。『教養とは他の考え方が成り立つことを知ること』なのである。
だが私はこう考える。この番組に代表されるように、政府は新聞やテレビの批判に圧力を加えてはいない、むしろ、言いたい放題状況だと認識している。今回の騒動は逆に改めて我が国の健全な“報道の自由度合”を示したように受け止めた。
いちゃんもん補佐官の、報道内容を軌道修正したい気持ちは理解できるが、政府権力をもって弾圧するという手法は許されまじきことではないか。こんな戦前的発想をする政治家がいることが、我が国の報道の自由を危うくしていると、強い不信感を持つ。
しかし、しかしである。その番組にもよく登場する青木理は、修正成立したしたLGBT法案に対して「人権原則の基本すらわきまえていない。この国の根腐れも行きつくとこまで行きついた観がある。国の人権感覚はもはや論評に値しない次元にまで堕ちた」と聞くに堪えない酷評をしている。 しかし、LGBTの性的少数者の主張も受けとめなければならないと同一なスタンスをもって、これまでの流れに不安をいだく少数政治家の意見にも耳を傾ける必要はないのであろうか。
もうひとつ、朝日新聞編集委員高橋純子氏の発言。岸田総理の改造内閣の女性大臣に対しての「女性ならではの感性や共感力をもっって」の期待表明を、女を数としかみていない、首相のジェンダー感はどうなのか、と批判したあげく『おぞましい』と切って捨てた。
私はこのジェンダー論に物申す知識はないが一記者の“ぶんざい”で一国の総理に向かって『おぞましいしい』と発言できる彼女の、生まれて今日までのヒストリーに強い“おぞましさ”を感じてしまう。
権力批判を的確に発信し続けていると思える内田樹にあっても、「言論の自由とは自分の言いたいことをいう自由のことではない。多様な政治的意見が共生しうる場に対する相手への敬意のことである。人々が情理をつくして自説の受け入れを粘り強く求めていけば、言論の自由は生き残るであろう」と理屈付けをしてくれている。
報道の自由とは何を言ってもよいうものではないと思う。
・・・がどうでしょうか。
講演請負業 阿武一治 kazuharu.anno@gmail.com
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