コラム・エッセイ
№25 歴史考2・『鳴かぬならどうにか鳴かそうホトトギス』…“学ぶは信長”ではないか
独善・独言大河ドラマ「どうする家康」の脚本にあきれかえっていた。子どもたちがあれを史実として学んだら“どうなる”と気の毒になる。
ことに我慢のならないのは信長描写である。同盟者家康にあのような高圧的で暴力的な態度をとったとはどうしても思えないのである。
右2表は信長伝記「信長公記」の抜粋である。A表では領民に対して、B表では配下に対して周到な気配りをしていることがわかる。恐怖感をもって管理してきたわけではないことが知れて、意外感をもたれるのではないか。
池波正太郎は信長の成功要因を、㊀猛烈な進撃ぶりとともに、㊁政治工作の見事さ、㊂領地にほどこした内政の細心さ…と指摘しているが、どうする家康の脚本家はこれをどう聞く。
ただし、信長が周囲へ発するプレッシャーは普通ではなかったことは確か。そのことを磯田道史は“信長疲れ”と表現している。しかしそれは、信長の熟慮の上に発した合理性にありはしないか。その新しい感覚についていけない周囲の疲労感ではなかったろうか。
『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』は信長の短気な気性を強調してストレートだが、彼の合理的な発想はそのような狂歌が的外れであるということを示している。
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その合理的→革命的発想を4件。
㊀桶狭間後の論功行賞で一番槍の兵士を差し置いて「義元が田楽狭間で休息している」との的確な情報をもたらした梁田政綱を手柄一番と指名した。敵の首をあげた者が何をおいても称賛される当時の常識からすると武闘より情報とい選択に周囲は驚愕したという。
㊁3間半(6.4メートル)の長槍を採用した。それまでの1対1で突きあう個人戦から“槍ぶすま”によって1対多数で闘うという団体戦に戦闘の形を変えることになる。
㊂その槍持ちの先頭に立ったのが常備軍の親衛隊であった。当時の兵隊のほとんどは、いざというときに馳せ参じる農兵であって、農繁期には戦闘員の確保がままならなかった。信長は領内をぶらつきながら領民の若い次男、三男を集めて常備軍を組織化した。誰もやらなかった兵農分離の端緒になる。
㊃領国内の道路に橋をかけ、急こう配をならし、道幅を3間半に広げた。他所からの侵入を想定して道路にハザードを設けることが常識の時代に6メートルの道路である。人の行き来や牛馬の運搬が楽になり物資の流通が進む。領民からの支持拡大と経済効果の追及…なんという革命的合理性。
ほかにも㊄楽市楽座、㊅比叡山焼き打ち=既存権威の打破、㊆秀吉や光秀の抜擢→加来耕三は「アジアからの派遣労働者を役員にしたようなもの」と表現している。
これら“それまで誰も発想しなかったこと”に挑む深慮と実行力…私は信長には「鳴かぬならどうにか鳴かそうホトトギス」の歌こそふさわしいと思う。本能寺での“油断”も合せ『学ぶは信長』と思うが。
…どうでしょうか。
私が勤めた会社のトップであったSは我々若手に『Something New Something Diffrent』=何か新しものを何か違ったものをと訴えた。
そして、①前例にこだわるな、②同業他社に倣うな、③情報を重視をせよと諭した。㊀の梁田正綱の情報価値の話しは強烈で新鮮に聞いた。あれから30数年…私には温顔なSが信長にダブルのである。
講演請負業 阿武一治 kazuharu.anno@gmail.com
