2026年01月30日(金)

コラム・エッセイ

№50 人物考5・私の松本清張…清張は私の人生に彩りを与えてくれた恩人と思っている

独善・独言

 会って話をしたことなど一度もない。にもかかわらず私の人生を豊かにしてくれた恩人が二人いる。それが松本清張と司馬遼太郎といえば身の程知らずであろうか。

 今回は清張に関していくつか。

 ㊀A表は清張が仕事、人間関係、家族のすべてがどん詰まり状況で自暴自棄になっていた30歳代後半の記述である。新婚の何年間、このボタ山の近くのアパート住んでいた。20歳代の私は「清張が世にでた年齢までには10歳以上の差がある。この間に確たる人間形成をすればよいのだ」と青年らしく自分に言い聞かせていた。もちろん、その後50年の今になっても確たるものなど何もつかんでいないが。高校時の『点と線』以来、清張本を読んできたが、この住み家が近いというロマンに後押しされ小倉勤務の7年間は集中して読んだ。

 ㊁小倉には清張のテーマがつまっていた。朝鮮戦争に送り込まれる前の死の恐怖におびえる黒人兵士が、折からの祇園祭りの太鼓の響きに先祖からの魂を揺さぶられれて集団脱走して暴動をおこした(『黒地の絵』)というアメリカ兵士の駐留キャンプはすぐ近くにあった。

 芥川賞作品『或る小倉日記伝』の森鴎外が住んだ家は、私の勤務する事務所と同じ町内にあった。訪れた多くの知人を案内したが、誰一人私ほど感激しなかった。

 『谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま』と英彦山を詠んだ野心家の俳人杉田久女が、名門小倉中学教師の夫の怠惰に失望して精神を病んでいく話は『菊枕』にある。小倉には清張がつまっていた。
 ㊂『時間の習俗』の門司和布刈り神事はみたことがない。『点と線』の香椎界隈も歩いてみたが清張目線は伝わらなかった。

 この『点と線』では私の母との会話を思い出す。「この鳥飼という刑事の名は博多の地名にあるんよ」と教えてくれた。清張はこんなことにも何かをしのばせているのか、ならば東京からきた刑事の三原は西鉄ライオンズが招いた三原脩監督の名を借りたのだろうかと思いをはせた。

 ㊃は『砂の器』…大学時代に激しい雨で野球の練習が中止になり朝から読みだして一歩も外に出ないで翌朝3時頃に読了した。外は雨粒の音が絶え間なく、部屋全体が押しつぶれそうな恐ろしさでブルブル震えがとまらなかった。しかしこの作品に限っては橋本忍脚本の映画の方がすっきりしていて出来が上ではなかったか。映画の奥出雲の亀嵩(かめだけ)駅での息子が親を追いかけて線路を走る場面で泣けない人はまずいまい。亀嵩には何度か訪ねている。

 ㊄私が一番と推す作品は短編の『遭難』である。自らの弱さで作った窮地を脱却すべく綿密な殺人計画を立てて実行に移すが、徐々に論拠が崩れていき最後は破滅していく、悪事は成就しないというのが清張の外せない筋立てであるが、この作品に限っては事前の殺人計画が斬新でアリバイ崩しなどのありきたりなストーリーでなく、犯人は疑惑をはねのけて生き延びていくという結末になっている。

 ㊅私の清張物語は関りのあった場所や映画からさらに拡散していく。先ほどの橋本忍のことや『天城越え』の暗闇のトンネル、朝日新聞社まで線路を歩いて通ったという小倉鐡道のことなどなど。

 そのなかで一つ…直木賞作家古川薫氏と食事を共にした。B表のように本の題名が清張と同様具体的でない。たとえば『天辺の椅子』には「児玉源太郎伝」と書き添えればもっと注目されませんかと、清張なら曖昧でも手にとるでしょがということばは飲み込んで問うてみた。そしたら古川氏からは「そこが小説家の矜持ですよ」と何とも言えない微笑みが返ってきた。

 以上、清張は私の人生に彩りを与えてくれた恩人だと思っている。

…がどうでしょうか。

A表:清張『半生の記』より抜粋
家の近くに廃鉱になったあまり高くないボタ山がある。私は娘を連れて夜、その山の頂上に立ち星座の名前を教えた。そんなことでもするより仕方がなく私の心には星は一つもみえなかった。
B表:清張と古川薫の小説タイトル
清張:『ゼロの焦点』『球形の荒野』『Dの複合』『霧の旗』『目の壁』『黒い福音』『黒革の手帳』
古川:『天辺の椅子』(児玉源太郎)『惑星が行く』(久原房之助)『漂泊者のアリア』(藤原義江)『暗殺の森』(中山忠光)『花も嵐も』(田中絹江)
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