コラム・エッセイ
No.65 私話し7・私がロマンを感じた旅をお伝えしたい…偏りすぎているか
独善・独言私の旅は歴史と歌の旅である。私がロマンを感じた“独りよがり”の場所をいくつか紹介したい。
㊀まず信濃の中野市。この街の長野市寄りの丘陵地に中山晋平記念館がある。野口雨情、北原白秋、西條八十等の作詞家と組んで作曲したA表の曲が館内にあふれている。外には千曲川に向かい穏やかな田園風景が広がる。北に進むと唱歌「故郷」の作詞家高野辰之の生家がある。朧月夜、紅葉、春の小川…そこはこれらの歌詞そのままの村里である。さらに千曲川を下り越後との国境、黒姫山の麓に小林一茶の旧宅がある。『これがまあついの栖か雪五尺』『雪ちるやしかもしなのゝおく信濃』という句がしみ込むたたずまいのなかにある。この3人に加えて「風の谷のナウシカ」の作曲家久石譲も当地の出身と聞く。なぜこの地がこれら歌人を輩出したのか…千曲川という詩情と無縁ではあるまい。
㊁伊豆の下田港の公園にたつと松陰先生がペリーを頼んでアメリカに渡ろとした弁天島の海が一望できる。B表星野哲郎作詞の「吉田松陰」は先生の「やむにやまれぬ大和魂」を見事に表現している。私は眼下に4隻の黒船を想像し松陰先生の“男意気”というものに思いをよせてこの歌を口づさむ。
㊂秋田県小坂町は銅山で栄えた。久原房之助翁は藤田組の工場長としてこの地に赴任して、ここから日本鉱業、日立製作所、日産コンコンチェルに拡がる久原グループの系譜がスタートする。採掘に成功するまでの軌跡を紹介する鉱山事務所と今も現役の演芸場「康楽館」があり、盛時と閉山という盛衰に想いを馳せることになる。町に300万本植えてあるアカシアの白い花が甘く匂いだすのは初夏の頃という。
㊃伊豆の源頼朝の流刑の地、蛭ヶ小島。名前のとおりヒルが生息する沼地であって島流しにふさわしい場所であったのかもしれない。しかし、その地には富士山が山をはさんで間近に迫ってくるような風景がある。頼朝は配流された20年間、毎日日本一の霊峰に「いつかは」と願をかけた、そして勇気をもらってはいなかったか。平家はなぜこの魂を震るわさせる地を選んだのか、もっと頼朝がイジケル所がなかったのか。私は強い違和感を感じながら富士を仰ぐ。
㊄山口県でひとつ。下関市豊北町田耕(たすき)に中山忠光卿が暗殺された場所ががある。卿は公家、妹は暗殺事件の3年後に明治天皇のお妃になっている。過激な攘夷派であって天誅組の変を起こすが失敗、かくまった長府藩はもて余してこの地で暗殺してしまう。維新後、天皇の義兄になったことを知り綾羅木神社を建立し事件をウヤムヤにしたという流れである。
しかしその後のストーリーも興味深い。卿の身の回りの世話をしていた娘が生んだ子どもは、天皇の縁続きというので嵯峨家に引きとられて成長した。さらにその娘は満州国皇帝の弟溥傑と政略結婚し愛新覚羅浩となった。浩は満州国の滅亡、中国共産党からの追及、文化大革命でも迫害された。さらにさらには浩の娘が天城山で心中自殺をして世間を騒がすなど波乱の人生を歩む。その間の哀惜は本人著の「流転の王妃」に詳しい。
暗殺地には中山卿をまつった小さな神社があり何度か訪れた。本人の無念、一族の普通でない波乱や流転の軌跡を偲びながら、卿の魂はどこをどうさまよっっているのかと…合掌する。
㊅最後はやはり笠戸島の夕日。徳山湾に落ちていく風情は国内の各所の夕日名所と優劣はつけられまいが、海の波に反射する目に痛いほどに迫る“波光”は日本一であると私一人で確信している。これも“独りよがり”であろうか。
…どうでしょうか。
講演請負業 阿武一治 kazuharu.anno@gmail.com
