コラム・エッセイ
No.119 変化に対応する・あのミシンのブラザー工業は情報機器メーカーに進化している…その変革の軌跡に注目してほしい
独善・独言前稿「柳井商工バドミントン部の11連覇の偉業」に続いて「ブラザーミシンの軌跡」をテーマに「私の注目する組織マネージメント」に関して述べたい。先日仲間14人とともに名古屋市のブラザーミュージアムを訪れ、平成15年までトップを勤められた安井義博名誉相談役のお話を2時間にわたって聞くという、一生ものの機会を得た。
㊀安井氏が社長就任の前からミシンの日本の市場は激変していた。嫁入り道具の一つともてはやされて、あれほど売れていたミシンが生活様式の変化、殊に共働き社会の進展と既製服志向の高まりでまったく売れなくなってしまった。ブラザー工業はミシン製造から始まった企業である。主力製品の不振を補う“次のメシの種を探す”宿命を背負わされての社長就任であった。
㊁世の中の仕組みが劇的に変化したことで従前の事業が根源から継続できなくなった例は多い。ローソクや燐寸(マッチ)、どんな田舎にもあった駄菓子屋、雑貨店、タバコ屋はコンビニに駆逐された。最近では“現像”という価値を喪失した写真屋さんがある。
リッカーミシンは脱ミシンに失敗して市場から去っている。当社は戦後4年目に日本理化学工業という重々しい名前からハイカラ社名に変更して家庭用ミシンのトップメーカーになったという歴史を最近になって悲しく聞いた。
㊂ところでブラザー工業が縮小した事業はミシン製造だけではなかった。家電、編み機、タイプライターなどを開発したがいずれも時代に取り残される結果となった。極め付けはオートバイの製造事業である。撤退理由は昭和34年の伊勢湾台風という。こうして何度も世間の流れに翻弄され続けた企業を聞いたことがない。ドラマである。
㊃ただ負け続けたわけではない。ミシンの製造技術の延長線上に今を創りあげてきた歴史がある。
『市場のニーズの変化が激しくなる中で衰退してきた一つの技術を捨てて別の技術に変わるということはよくあるが、我々はできるだけ技術を捨てないで新しい技術開発にとりくむという姿勢を貫いてきた』また、『創業は易く守成は難し⇒一度大きくなった組織や事業を維持したり立て直したりするには常に内なる敵に勝たねばならず、創業以上の困難ががつきまとう』という安井氏の述懐には“ものづくりの会社の矜持”があふれていると思われないか。
㊄お客様のニーズを追い求めてきて革新的に新規の事業開発を推し進めた。私の理解できる範囲は「通信カラオケ」や「着メロ」であるが、その他“世界初”という製品をどんどん開発してきた。結局変化を追い求めねばならない環境下あったということであろう。ブラザー工業という会社は世界で最も多くの事業から撤退した会社、世界で最も多くの事業を起こした会社、そう云えるかもしれない。
㊅安井様は“生き様”に関しても語られた。共感した「実践哲学」を3つ。
『共生き』…「共存とは違う。対極と思えものが実は互いを生かし生かされ成長していく」
『初心』…「初心とはその時々の初心である。人間は傲慢になれば進歩が止まる。逆に自分は今なお未熟と謙虚さを忘れなければ時代の風も敏感に感じ取れる」
『変わる勇気』…「私は外部環境の変化(チェンジ)を企業成長の好機(チャンス)にしようと考えた。相当の覚悟をもって経営資源を集中すべき項目を選択(チョイス)した。集中すべき対象は人材と新規事業の育成だった」
㊆ミュージアムには⑴最初に手掛けた麦わら帽子製造機、⑵創成期から今日までの歴代のミシン群、⑶脱ミシンで挑戦した様々な機器、⑷そして最新技術の情報機器等が展示されている。
⑵で並べられたミシンの数は50機以上になる。これには“少しずつ僅かずつ改良し、改善し良化し進化してきた”技術革新の軌跡が象徴的に詰まっているように受け止めた。また、5年後に訪ねた際には⑷の場所には、今とはまったく別の新製品が並んでいるであろうことは想像に難くないとも思った。
皆様が今後新聞で「ブラザー社が○○の新技術を開発した」という記事を見られたら私の本稿を想起してほしい。
