コラム・エッセイ
第15回 スペイン・インフルエンザ「第二波」と周南地域
大正期 スペイン・インフルエンザと山口県の人々 小林啓祐前回、1920(大正11)年1月に起こった、山口県内におけるスペイン・インフルエンザ第二波について紹介しました。第1波は前々年の12月にピークがきていましたが、第二波は1月の患者数が多かったのです。それでは、今回は翌月の2月の状況についてみていこうと思います。
インフルエンザ関係記事として『防長新聞』の2月に入って初めて登場するのは、2月2日に掲載された「流感余聞」(流感はインフルエンザのこと)です。内容は、とある高校で生徒たちにインフルエンザが蔓延したものの、幸い症状は軽いものですんだ、というものでした。しかし、教員にも広がったため、一時「危険地域」にまで達したとしています。2月3日の記事では、山口町(現山口市)において、1月中に亡くなった83人中、44人がインフルエンザで亡くなったということを報じています。実に死因としては半分以上の割合を占めることとなり、インフルエンザの猛威の様子がよくわかります。2月4日に掲載された記事において、県内のスペイン・インフルエンザ患者が、初発以来「39,798人、内死亡が2,358人」にのぼったことが報道されました。同日の記事では、1月31日だけで患者数は675人、死亡数は58人であったことも報じられ、31日に最も罹患者が増えたのは都濃郡で154人だったとされています。第2波において、周南地域はこの時期にスペイン・インフルエンザがひどく蔓延していたことがわかります。
2月5日の記事では、伊陸村(現在の柳井市)伊陸尋常小学校(現在の伊陸小学校)でインフルエンザが蔓延し、2週間休業したほか、「柳井看護婦会」から看護師を派遣するものの、大忙しという記事が掲載されます。この当時の医療体制は今と比べても盤石とは言えません。医療体制が脆弱なところには、このようにして医師や看護師が派遣されるのですが、インフルエンザの蔓延状況は厳しいもので、第一波同様手が届かなくなっていたのです。
このように、2月に入ってもその猛威はとどまるところを知りませんでした。前年の経験があっても、その蔓延の勢いを弱めることはできなかったのです。
1920年2月4日『防長新聞』=県立山口図書館所蔵
