コラム・エッセイ
第16回 スペイン・インフルエンザ「第二波」と山口県民
大正期 スペイン・インフルエンザと山口県の人々 小林啓祐前回はスペイン・インフルエンザ「第二波」が、1920(大正11)年2月に入っても猛威を振るっていたことを紹介しました。今回は、その続きについて見ていきます。
第二波の『防長新聞』の報道で特徴的なのは、今まで全県的な話や市町村レベルの罹患状況が報道されることが多かったのに比べて、家庭レベルの話が頻繁に報道されるようになることです。例えば、2月7日には、「一家四名相次いで流感で死亡す」(流感はインフルエンザのことです)という記事が掲載されます。
これはある警察官がインフルエンザに罹患し、玖珂郡由宇村(現岩国市)の実家で療養していたものの、肺炎を併発して亡くなり、さらに家族全員が罹患してしまったことで八か月の赤ん坊含む4人がなくなったという悲劇でした。
2月13日には大島郡屋代村(現周防大島町)、玖珂郡広瀬村(現岩国市)、熊毛郡伊保庄村(現柳井市)、熊毛郡室積町(現光市)でインフルエンザの猛威が報じられます。山口県全体もですが、山口県東部の猛威の状況が重点的に報じられます。それほど、この時期の山口県東部の蔓延状況がひどかったのでしょう。
2月後半の記事はあまり多くないのですが、どのような状況だったのでしょうか。2月25日に掲載された記事では、大島郡の状況が報じられます。その内容は、1月初旬より屋代村(現周防大島町)でひどく蔓延したインフルエンザは、1月初旬から広がったもので、2月下旬になってやっと収まりつつあるということを報じています。記事では、1月中に17人、2月中に14人亡くなっていることが報じられます。
1921年版の『山口県統計書』によれば、屋代村の本籍人口は5,266人でした。2か月の間に約0.6%の人が亡くなってしまっていたのです。約0.6%というと低いと思われるかもしれませんが、例えば1億人規模で考えれば60万の人が2か月間で亡くなっているのです。かなり高い死亡率と言えます。
では、屋代村の事例は日本でも厳しい状況であったかというと、屋代村よりもひどい地域があったというのがスペイン・インフルエンザの怖いところでした。
1920年1月2月のスペイン・インフルエンザの蔓延はひどいものでした。3月に入ると、ようやく改善の兆しが見えるようになるのです。

1920年2月25日『防長新聞』=県立山口図書館所蔵
