コラム・エッセイ
(91) ここで・筆を…置きたい
美人薄命 走れ!おばさん 中村光子令和4年12月26日、この日の駄文で今年は終わる。いや、これを最後に“走れ!おばさん”を終わる…ことにする…つもりだ。
1992年1月から「日刊新周南」に書かせていただいた。表題は書家の明石慶雲氏にお願いした。駄文の校正は、初代編集局長の橋詰隆康氏であった。
40代前半からジョギングを始めた。「周南走ろう会」の会長、小野幹夫氏(故人)の元で走りながら、小野氏ひとりで立ち上げられたと言ってもよい“萩往還マラニック”を手伝った。20年間、チンタラ走ったことで“走れ!おばさん”と題した。
反面、鬼編集長(私が秘かにつけたあだ名)から電話がかかってくると、緊張して直立不動の姿勢になった。どの文章表現が悪かったのかなあ、と先まわりしドキドキしたものだ。おかげで、随分と勉強させていただいた。
時々、ご自宅へ招待して下さり、料理上手な奥様の手作りのおいしいお菜とお酒で歓待していただいた。その時は優しい編集長でした。
あれから幾年月が過ぎ、65歳まで走り続けた。オーストラリア遠征(ちょっと格好つけました)したりと、楽しい時代でした。
やがて寄る年波には勝てず、気がつくと晩期高齢者の部に入っておりました。トホホおまけに、コロナ禍。幸い今のところ感染していないが、たくさんの友人・知人に感染者が出た。
過日、新周南新聞社の中島社長に電話を入れた。
「この原稿で最後にしようと思っているのだけど…」
「まあ、食事でもしながら、これからのことを相談しようよ」
「こ、これからの事って、何ですか?あと何年、生きられるかわからないのにィ」
と言った。娘と私をおいしい料理屋に誘って下さったが、私は頭を縦には振らなかった。
「月に1、2回ならどうかなあ。趣向をかえて、若い頃に書いていた詩なんかどうだろう」
そ、そりゃあ、高校の頃、担任で詩人の礒永秀雄の元で、下手な詩を書いていたが…。
走れ!おばさんのカットは、カットの天才杉川茂氏で、1度も駄文に対する問い合わせはなかった。私を美人に描いたり、醜女に描いたりして、にこっとさせたり怒らせたり…カットに支えられて続ける事が出来た。
中島氏の話に感謝しながら、決心つかぬまま、これを書いている。ここで筆を置きたい気持ちが強いのだ。
駄文を掲載して貰ったこと、そしてお読みいただいた方々には感謝の言葉のほか、何もありません。長い間ありがとうございました。
