コラム・エッセイ
又々 文月(一)
随想 季節の中で 西﨑博史(周南文化協会会長)6月の最終日は夏越(なごし)の祓(はらえ)。1年の折り返し点。半年の無事に感謝し、残りの半年の無病息災を祈ります。各地の神社には茅(ちがや)で作った大きな「茅(ち)の輪(わ)」をくぐる習わしや、形代(かたしろ)という紙製の人形(ひとがた)を水に流す行事が受け継がれています。
夏越の祓に食べるのが「水無月」。三角形のういろう生地に煮小豆をのせた和菓子で京都の暮らしには欠かせません。氷に見立てた三角形の白いういろう生地は暑気払い、煮小豆は厄払いを意味します。今年も友人からいただいて、ういろうと小豆の舌触り、やさしい甘さを味わいました。
いよいよ7月。この連載も5年目に入りました。2日は6月21日の夏至から数えて11日目で「半夏生」とされます。かつては田植えを終える目安にしていました。七十二候でもこの日から「半夏生(はんげしょう)」としてサトイモ科の烏柄杓(からすびしゃく)が生える頃としています。ドクダミ科の「半化粧」という植物もこの頃花を咲かせます。葉の一部が真っ白で半分だけお化粧したように見えます。わが家の庭にもあって見るたびに、もう1年経ったのかと時の早さに驚きます。「片白草」の別名も納得です。
「半夏生」と聞くたびに母のことを思い起こします。7月2日は母の命日。昭和59年病気療養中に逝去。働き通しの67年の生涯でした。息を引き取った朝の情景を、真っ青な夏の空をはっきりと覚えています。肉親との別れがこれほど辛いのかを初めて知りました。田布施町川西の農家に生まれ、光市光井の郵便局に勤めていた時、父と出会い、昭和13年結婚。新居を構えてまもなく父は出征、中支(中国の華中地方)からマレーシア、ニューギニアへと転戦。終戦翌年に帰国しました。食料難の戦時中は光井から森ケ峠、鮎帰を通って川西の実家へ。米や野菜を求めて片道10キロの山道を歩きました。実家で昼飯を食べて休んだあと、来た道を重い荷を背負って引き返しました。
別れけり青田の風に髪打たせ 俣野佐和子
農家が点在し、まわりは田畑です。この一句に20歳代の母の姿を想像します。東京で暮らしていた父の兄一家も戦火が激しくなってわが家に疎開してきたので母も忙しく働いていたようです。兄一家は戦後、名古屋で設計事務所を興し、父も自宅を改装して履物店を開きました。夫婦で店を切り盛りして私たち二人の子を育ててくれました。父は平成12年89歳で他界。妻を追慕する16年の日々でした。75歳の今、父と母の人生を思います。
