コラム・エッセイ
(24)アゲハ蝶
補 周南新百景 佐森芳夫(画家)![]()
本来であればという言葉を使うのが適切であるかどうかはわからない。が、しかし、それでも、あえて使ってみたくなるのが、9月も終りに近づいているにも関わらず今だに終わりが見えてこない猛暑に対してである。
本来であれば、この時期になると、夏の暑さも終わり、朝晩には涼しさが感じられるはずである。そこには、厳しい季節を乗り越えたという達成感とこれからしばらくは快適に過ごすことができるという安心感がある。
こうした季節の移ろいが、崩れ去ろうとしているのかもしれない。わずか数年前には、クーラーもなく扇風機だけでひと夏を過ごすことができていた。それが、今では、クーラー無しの生活を考えることができない。
ひと時の涼しさをもたらしていた夕立ちはいつの間にか消えていき、ゲリラ豪雨や線状降水帯となって災害をもたらしている。夏の暑さは、もはや団扇や扇子で耐えられるものではなく、打ち水などもっての外である。
ここ最近の夏には、熱中症警戒アラートが発令された日中だけではなく、一晩中でもクーラーを使用しなければならない状態が続いている。もしも、災害が発生した時や突然停電した時のことを考えると不安が募る。
これらのことは、すでに人間が自然の中で生きていくことができないことを予兆しているのかもしれない。それが、人間が幸せになるために築いてきた文明が原因となっているとすれば、自業自得と言うべきであろう。
しかし、何の罪も責任もない人間以外の生物にとっては、迷惑千万なことに違いない。もしかすると、地球は人間のためにだけあるのではないと声高に叫んでいる生物達の声が、人間に届いていないだけかもしれない。
百日草が美しく咲いているのは、人間のためでは決してない。アゲハ蝶が空を舞っているのも、決して人間のためではない。花が咲くためには何が必要か、蝶が舞うためには何が不必要かを人間は理解すべきであろう。
