コラム・エッセイ
No.48 農村の希望(1) 限界集落⑩ 四万十川中流の集落を訪ねて(三)
中須里山通信 形岡 瑛国の林業政策に抗して、50%クヌギ・ナラなどの雑木林を維持し、農林一体の産業を確立していったということは、特異なことではなかったろうか。高度成長というのは、労働力を農林業=第1次産業から鉄鋼、石油、自動車、家電などの製造業=第2次産業に急激に移動させたものだ。それに抗して十和村十川、古城集落でどのようにして、地域主体の産業を発展させ、集落を存続させてきたのか?
1944年(昭和19年)戦時態勢に対応して産業組合が十川農業会に改称され、戦時統制の下におかれた。1945年、敗戦と共にGHQ示達により、解体、十川農業協同組合となったが、社会の混乱などで事業休止となった。1953年(昭和28年)再発足、その後、「村の執行部、村会議員、各部落長の協議により、農協と森林組合を一つにして、共通役員構成とし矢野岩茂村長が組合長に岡峰藤太氏が専務理事に就任、部落共有林の購入、村有林の払い下げを受け木炭の増産に努め、販路を開拓して共同販売で利益を上げ、古城を中心とする椎茸栽培は遂に日本屈指の産額をあげるようになり、製茶事業の発展などにより、組合としての事業も逐年発展して今日に至っている。」(1984年発行の『十和村史』p743、十川農協は、地場産業の振興、複合経営の指導により地域社会の発展に貢献したとして1967年第5回朝日農業賞を受賞)十川農協・森林組合の事務所の前には、岡峰藤太氏の功績を称える顕彰碑が建てられている。(写真)
大野晃氏はこれを「農林複合経営」と定義している。(注)
(注)大野晃「山村における椎茸生産の展開と農民層の動向」、高知論叢第19号1984年3月」
十川農協・森林組合の岡藤藤太氏顕彰碑「くみあいは永遠に」(2009年7月5日撮影)
